白石たみお物語
1. 誕生、少年は寿司職人にあこがれて
白石たみおは、1982年1月、父武実さん、母芳枝さんの長男として板橋区で誕生しました。
勉強よりも遊ぶの大好き!野球少年白石たみおは、小学校の卒業式で「将来すし屋になって、高級なすしを安い値段で誰もが気楽に入れるすし屋になりたい。そしてお金をためて船を買いたいです。」と夢を語りました。
白石たみおの「すし屋になりたい」という思いの背景には、釣り好きの祖父が、自宅で魚をさばき調理する姿への憧れがありました。
少年が寿司職人をめざし、全国各地の達人と戦いながら一人前の職人になるまでを描いた「将太の寿司」(寺沢大介・講談社)に夢中になっていた中学生の白石たみおは、進路相談で、寿司職人か高校進学かに悩んだ末、担任の先生の薦めもあり、私立高校に入学しました。
しかし、同時にはじめた回転寿司屋のアルバイト、毎日職人さんを見ている中で寿司職人への夢が大きくなり「この世界、学歴は関係ない。実力があれば自分の店ももてる」と高校1年の終わりころから高校を中退する決意を固め、そのことを両親に相談。
両親の大反対を押し切り、自ら退学届を出し、バイト先のあっせんで大井町にある寿司屋へ就職することが決まりました。
そこから、本格的な寿司職人をめざす修業が始まりました。
白石たみお17歳の一大決心です。
2. 寿司職人修行時代 苦難の5年
大井町の寿司屋で修業を始めた白石たみおは、午後4時に出勤し、いかのわたとりや皮むき、あじの三枚おろしなどの下ごしらえから、接客、出前、皿洗いをこなし、午前3時に店の仕事を終え、その足で先輩職人と一緒に築地市場で仕入れをしました。
一日12時間以上の勤務で、給与は手取り15万円でした。しかし、白石たみおは夢だった魚を調理できる喜びや、自分の作った出し巻き卵を、お客さんに出すことが出来る事に、やりがいを感じていました。
ある日、港区のある高級寿司店から誘いの声がかかりました。
悩みましたが「いろんなところで修行するのも大事。」との親方の薦めがあり、一流の職人になるべく希望をもって新しい修業先に行きました。
しかし、そこは、大井町の店とはまったく違う現実が待っていたのです。
仕事の内容に変わりはありませんでしたが、理不尽な先輩たちの新人いじめがありました。
手際が悪いと包丁で手をたたかれ、嫌がらせで冷蔵庫の扉に挟まれ、出前では地図なしで行かされ2時間もかかり、帰って怒鳴られたこともありました。先輩たちに逆らうこともできず、一日12時間以上の労働で休憩は15分、唯一安らげるのは、トイレの中だけという状態でした。白石たみおの後に入ってきた新人たちもすぐに辞めていく、そんなお店でした。
これも修行だと言い聞かせ、我慢して続けてきましたが、半年も過ぎたころ「つらい」「苦しい」「先輩に会いたくない」「職場に行きたくない」そんな気持ちが湧きあがり、ついに職場に行けなくなりました。
「職場にいけない」「修行から逃げた」ダメな自分に落ち込み悩みました。親にも友人にも、相談することはできませんでした。
寿司職人になる夢が破れ、人生の挫折を味わいました。
3. 仲間の力に助けられ。
そんな時、訪ねてきた民青同盟の仲間に、今の状況と悩みを打ち明けました。
すると仲間たちは「悪いのはたみおじゃない。」「一人で悩まないで、一緒に学びながら解決していこう。」と励まし、民青同盟の活動に誘ってくれました。
気持ちが軽くなった白石たみおは、それを気に民青同盟に参加するようになりました。
青年の要求実現をする「民青同盟」での学習を通して、自分と同じような境遇で学校や、仕事に挫折する若者と出会い、その原因は日本社会のしくみや労働条件の貧困からきていることを知りました。
悩んでいる青年がいると親身に話を聞き「民青同盟で一緒に頑張ろう。」と呼びかけ、多くの青年とつながっていきました。
同時に、自分も、もっと勉強をして、広い視野をもち、仲間の悩みに応えたいと都立大崎高校定時制を受験。合格。
2003年4月、21歳の高校生が誕生しました。
4. 活動の原点「誰でも幸せになる権利がある」
夜間定時制高校では白石たみおの原点とも言えるいろいろな出会いがありました。
クラスの仲間は16歳から70歳まで。いじめに苦しんでいた人、経済的理由で全日制に通えなかった人、いろんな事情を抱えた仲間と机を並べて過ごした4年間でした。
定時制高校の仲間との学校生活は息抜きや活力の源になりました。バトミントン部にも入りました。
パートや非常勤、派遣で働く人も多く、労働条件のことはよく話題になりました。
そこで高校の先生に相談をし、放課後に青年ユニオンの方を講師にむかえ、労働問題を学びあう、連続学習講座を企画しました。
定時制高校で「誰でも学ぶ権利がある。誰にも幸せになる権利がある」ということを学び、それが白石たみおの都政に挑む「原点」となったのです。
5. 青年活動のリーダーとして若者の抱える問題と向き合う
その後04年から12年まで8年間、仲間とともに民青同盟の責任者として奮闘します。
青年活動のリーダーとなった白石たみおは、昼はアルバイト、夜は高校生、と、三足のわらじをはき、忙しく充実した日々を送りました。
イラク戦争への不安が高まった2003年12月。
東京で初めて"青年だけ"のデモ行進を企画しました。
毎年8月には「原水爆禁止世界大会」に参加するためバスをチャーターし、多くの若者を連れて合計5回、広島、長崎への「平和学習ツアー」を企画しました。
2011.3.11の東日本大震災では、政府の支援が遅れる中、トラックに物資を積み、被災地へ届けるボランティア活動も積極的に行いました。
6. 痛みが分かるだからたたかう 議員へ
年齢も職業も違う同級生と過ごした、大崎定時制高校での4年間で、「誰でも幸せになる権利がある」という当たり前の事を知った。
社会の仕組み、政治の歪みで苦しむ多くの若者とつながり、
青年活動で訴えてきた切実な要求を実現し、平和で安心して暮らせる社会にしたい。
夢に破れて大きな挫折を経験した時、差し伸べられた手。
今度は自分が、自分と同じように悩んでいる人、苦しんでいる人に手を差し伸べたい。
「痛みがわかる だからたたかう」
都民のくらし・福祉をまもる都政にするために立候補し、
2013年6月23日 白石たみおは、東京都議会議員品川選挙区で15,338票を獲得し当選する。
7. 都議会議員として4年間活躍。再び都議会へ。
2013年みなさんのお力で、白石たみおを都政へ送り出していただきました。
猪瀬・舛添 両知事の「政治とカネ問題」の追及、「築地市場の豊洲移転問題」など、利権にまみれた"都政の闇"の究明に全力を挙げてきました。
学びにおいては「夜間定時制高校の存続」「給付制奨学金制度の充実」
生活においては「羽田超低空飛行ルートの撤回」「耐震化助成の抜本的拡充」「特定整備路線の問題」
子育て、介護では「認可保育園・特養ホーム・障がい者施設の増設」「国保料の引き下げ」など都民の切実な要求にこたえるべく、戦ってきました。
「痛みがわかる だからたたかう」
利権にまみれた都政のゆがみをただし、くらし・福祉最優先の都政への改革をすすめるために、ひきつづき都政の場で働かせてください!